2005年11月06日 ドイツ情勢

ドイツ政局:ミュンテフェーリング氏はSPD党首を事実上辞任、プラツェック氏が党首就任の見込み、CSUのシュトイバー氏は入閣せず

ドイツでは、アンゲラ・メルケル女史の次期首相就任に基本合意したキリスト教民主同盟(CDU)・キリスト教社会同盟(CSU)・社会民主党(SPD)の三党二会派(CDUとCSUは一会派)により、連立交渉が進められているが、ここに来て、更なる混乱要因が現れている。

ことの発端は、今月14日から17日にかけてカールスルーエで行われる予定のSPDの党大会の準備にある。党大会においては、党役員の人事が決定されることになっているが、実際には、党の幹部会で候補者を予め定員に絞っておくので、事実上は事前に決定する。

SPDの幹事長(Generalsekretär)の候補者をめぐって、フランツ・ミュンテフェーリング党首は、腹心のカヨ・ヴァッサーフェーフェル(Kajo Wasserhövel)氏(43歳)を候補者に擁立したが、幹部会の予備投票で敗北した(なお、カヨ(Kajo)というのは、本名のカール=ヨーゼフ(Karl-Josef)の略称)。

予備投票に勝利したのは、アンドレア・ナーレス(Andrea Nahles)議員で、彼女はもともとSPDの学生組織であるユーゾース(Jusos)の団長をつとめていた人物。労働組合のIG(イー・ゲー)メタルに所属し、党内の左派として知られる。要するに、ナーレス議員の勝利は党内の左派の反乱であると見ることができる(CDU/CSUとの連立は、党内の右派が押し切った結果である)。

これにショックを受けたミュンテフェーリング党首は、もう党首選に出馬するのはやめたと言い出した。ミュンテフェーリング党首が留任することは確実と見られていられたため、この事実上の党首辞任発言は関係者にショックを与え、さまざまな波紋が生まれた。

〔シュトイバー氏は入閣せず〕

まず、メルケル内閣の経済科学技術大臣に内定していたエドムント・シュトイバー(Edmund Stoiber)CSU党首・バイエルン州首相が、入閣をやめると言い出した。「ミュンテフェーリング氏が党首でなくなった以上、SPDに対する予測可能性がなくなった」ことを理由としているが、CSUでは、州首相を辞することになるシュトイバー氏の後任人事を巡って混乱が起こっており、それを収拾する意味もあったものと見られる。

しかし、ARDの世論調査の結果は、シュトイバー氏は「党よりも保身を考えている(Nimmt seine Person wichtiger als die Partei)」が82パーセント、「彼がいなくなって、大連立の運営は容易になった(Ohne ihn Führung der Großen Koalition einfacher)」が70パーセントと、シュトイバー氏に対して手厳しいものとなっている。

シュトイバー氏の代わりに経済科学技術大臣に就任することになったのは、CSUのミヒャエル・グロース(Michael Glos)氏。もともとメルケル党首が入閣を望んでいた人物でもあり(しかし、CSU側が押し切り、ホルスト・ゼーホーファー(Horst Seehofer)氏が入閣することになった)、メルケル次期首相としては、実際に内閣の運営をやりやすくなったものと見られる。

〔SPD新党首はマティアス・プラツェック氏〕

SPDでは、ミュンテフェーリング氏の発言を受けて、後任人事の調整を行い、クルト・ベック(Kurt Beck)ラインラント=プファルツ州首相とマティアス・プラツェック(Matthias Platzeck)ブランデンブルク州首相の名前が挙がったが、結局、プラツェック氏に一本化することでまとまった。なお、プラツェック氏は、奇しくもメルケル氏と同じく「旧東ドイツ出身、自然科学者、51歳」である。

プラツェック氏は、1979年にイルメナウ工科大学でバイオ医学サイバネティック技師の学士号を取得後、旧カール=マルクス=シュタット(現・ケムニッツ)の大気汚染公害の研究所に就職したことから環境問題に興味を持ち、1987年には環境衛生学(Umwelthygiene)の専門課程を修了している。

1989年には政党「緑の連盟(Grüne Liga)」(緑の党とは別)の発起人となり、1990年には民主化時のモートロフ(Modrow)内閣の無任所大臣をつとめた。また、同年、90年連合(Bündnis 90)から州議員に当選し、マンフレッド・シュトルペ州首相(SPD、現・連邦交通建設住居大臣)の下で、環境大臣となった。その後、90年連合を辞め、無党派の州大臣として活躍していたが、1995年にはSPDに入党した。

1997年のオーデル川氾濫で危機管理能力を発揮し、政治家としての名望を高め、1998年にはシュレーダー首相から連邦大臣になってほしいと依頼されたが、これを拒否したために州の環境大臣を辞める羽目になった。そこで、ポツダム市の市長に出馬して当選し、しばらく市長をつとめていたが、2002年にシュトルペ州首相が連邦首相に就任したため、後任の州首相に就任した。

2004年のエルベ川氾濫で再び危機管理能力を発揮したため、「堤防伯爵(Deichgraf)」と渾名されるなど、名声を高めた。

〔ナーレス議員は失脚〕

幹事長の予備投票に勝利したナーレス議員は、ミュンテフェーリング氏辞任の原因をつくったとして批判され、内定していた幹事長候補への出馬を辞することにした。また、プラツェック次期党首から副党首(副党首には何人かおり、そのうちの一人)のポストを提示されたが、これも断ることとなった。メディアでは、これをナーレス議員の失脚と評価している。もっとも、ナーレス議員はまだ35歳であり、前途は長い。

ナーレス議員の代わりに副党首に内定したのは、ベルベル・ディークマン(Bärbel Dieckmann)ボン市長であるが、彼女は、アテネ五輪でビーチバレーに出場したディークマン兄弟(クリストフ、マークス)の母である。また、夫のヨッヒェン・ディークマン(Jochen Dieckmann)もSPDの政治家で、党のノルトライン=ヴェストファーレン州支部長をつとめている。

また、ナーレス議員の代わりに幹事長に内定したのは、フベルトゥス・ハイル(Hubertus Heil)議員である。ハイル議員は、ナーレス議員よりさらに若い33歳であり、SPD内部での世代交代が期せずして推し進められた恰好となった。